フリムジフリル

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『ここは居心地がいいけど、もう行く』

 丁寧に作り上げられた、おかしくてくだらない舞台! ゆるくて、しょうもなくて、笑える。そうして、自分の人生のなかでも大した注意を払わず、ぞんざいに扱ってきたような思い出が、ふと愛おしく、大事に思えてくるようなお話であった。観劇後のロビーで、畏れ多くも奥山さんにむかって「今まで見たロロでいちばん好きでした!」と口走ってしまったが、今もまだ同様の気持ちでまとまらない感想をタイプしている。

 ロロの近年の本公演作品では、「エモさ」との距離の置きかたが模索されてきた、ように見えていた。言い換えると、劇団としてどのように成熟すべきかを、作品を通して試行錯誤しているようであった。その誠実な姿勢を応援しながらも、「どうやら試行錯誤しているようだ・・」というメタ視点に、目の前の舞台を十全に楽しむことを阻まれてきた。

 しかし今回の公演『ここは居心地がいいけど、もう行く』において、ついにその試行錯誤の成果が、ロロの持ち味である天真爛漫さと見事に組み合わさって、花開き、実を結んでいた(と、いうのは完全にわたし自身の勝手な見方であるが、続けさせていただく)。とにかく、『もう行く』のエモくないところがすごく良いと思った。感動的なシーンになっても、カタルシスから常に半歩ずらすような、奥ゆかしい作劇や演出、演技のコントロールは熟練の域に達している。

 近作である『四角い2つのさみしい窓』や『Every Body feat. フランケンシュタイン』から引き継がれている要素もある。捨てられたもの・捨てられずにいるものを愛でる感情、もっと言えば「捨てられない」という強迫観念だ。この2作では「捨てられない」強迫観念を抱いたキャラクターがシリアスな存在感をもって中心に立っていた。

 『もう行く』に登場するダブチにとっても、ごみを迷いなく分別して捨てることのできる存在は、エイリアンに等しい。しかし、その感情はダブチが所属する喜劇研究部のコントとして切り分けられ、客観視できる対象となった。ある意味このことも成熟の内に含まれるかもしれない。

 「いつ高」シリーズのキャラクターである(逆)おとめは、『もう行く』では41歳になっていて、劇中いくつもの顔を見せる。ダブチの前では母になり、悠の前では憧れの業界人になり、白子の前では旧友になり、コントの中では気難しい大家さんにもなる。一方で、同じだけ歳を取った白子は、おそろしく不器用だ。

 白子もまた捨てることができるタイプの人ではないが、逃げることを知っている。逃げるという切り札一つで、どうにか生き凌いできたのではないかと思わせる。そして、逃げるという手段を彼女に教えたのが、かつての(逆)おとめなのだ。

 大人になった(逆)おとめは、逃げることをやめていた。再会した(逆)おとめを見て、白子もまた逃亡(あるいは避難)生活に終止符を打つことを決める。階段の踊り場というモラトリアムな場所に別れを告げ、次の目的地を探し始める。